月さえも眠る夜〜闇をいだく天使〜

17.約束



「アンジェリーク。どうして……。連絡は、しないでって言ったのに」
ロザリアの口調がつい、友人に対するものになる。
「体調は大丈夫。もともと仮病に近かったし。うふっ」
自ら暴露し、いたずらっぽく笑う。
その笑顔に、おや、という同僚たちの反応が音も無く流れる。
彼女の中で、再び何かが、変わった。
と。
それが、どの方向への変化なのかまではわからなかったにしろ。
アンジェリークは直に真顔になり言った。
「黒いサクリアを感じたの。この聖地でまさか、って思ったけど。来る途中、研究院に寄ったわ。フェリシアとエリューシオン、理由は分からないけれどまだ異変は起こってなかった。結界を急げばあちらはまだ大丈夫」
ロザリアが頷く。
「しかしお嬢ちゃん、お嬢ちゃんがひとりで虚無の空間へ行くってのは本気か」
相変わらずの『お嬢ちゃん』呼ばわりだが、アイスブルーの瞳は真剣だった。
「他に、誰が行くと?」
切り返され、うっと黙り込む。
虚無の空間に一般の人間を送り込むわけには行かない。
「皆様はここで、漏れいでる黒いサクリアを調整しなければいけません。けれどいつまでもそればかりしていては、宇宙を支えることがおろそかになってしまうでしょう?
ただでさえ、まだ定着しきっていないのに。こちらで応急の対処をしている間、私が直接出向いて昇華してきます」
よどみなく言う。
「でも、君ひとりってのは危険だ。以前だって怪我をして帰ってきたことだってあるじゃないか。せめて守護聖の誰かと」
ランディの言葉を遮りアンジェリークはさらに言った。
「百も承知です。それに危険だからこそひとりで行かなくちゃ。皆様に万が一のことがあったらどうするんですか?
それこそ一大事じゃないですか。陛下と、守護聖、誰一人欠けたってこの宇宙は成り立たないんですよ?」
そう。この場にいる自分以外の全員が宇宙には不可欠なのだ。
ゼフェルが声を上げる。
「てめー、まだそんな事いってやがるのか!?」
まるで、自分は死んでもかまわない、そう言っているように聞こえたのだろう。
「そうだよ、アンジェ、ちょっと突っ走りすぎてない?もうちょっと落ち着いてさ、考えてみようよ」
オリヴィエも後に続いた。

―― 今更、死など恐くない ――

かつて自分で言った言葉が飛来する。
ふう、とため息を吐いて、困ったように肩をすくめる。
「私、そんなに死にたがっているようにみえますか?やっぱり」
流れる沈黙。それは、肯定の意図のようである。
「他に方法があるのなら、それに従います。でもないでしょう?大丈夫、昇華はいつものことだもの。ちょっと、今回は大物みたいだけど」
同僚の沈黙にそう言ってアンジェリークは苦笑した。

◇◆◇◆◇

あの後……クラヴィスが去った後、部屋でアンジェリークはひとり考えていた。
この心の痛みはなんなのだろう、と。

セリオーンを失った痛み。
無力な自分に対する痛み。
これからもひとり生きていかなければいけない痛み。
同じ想いを抱える人への呼応した痛み。
愛さずに抱かれたことへの痛み。
愛されずに抱かれたことへの痛み。
そして。
人知れず自分を支えていてくれたひとに惹かれゆくことへの痛み。
そう。
かつて心から愛したはずの人が、悲しみのうちにも、いつのまにか
―― 想い出に変わりゆくことへの痛み ――

生きていくことは、想い出を上に重ねてゆくこと。
そして過去はいつのまにか淡くぼやけ、鋭い痛みはいつのまにか消えている。
想い出になどしたくはないのに!

今自分が何を望んでいるのか、そしてあのひとが何を望んでいるのかは分からない。
でも、このままじゃいけないことだけはわかっていた。なぜなら、自分は今生きている。
―― 考えたって、きっとどうしようもないわね。
彼女は思う。
この目に見えなくとも存在する新月のように、確かに今、答えはすでに、自分自身の中にあるはずなのだから。

クラヴィスに会いにいこう、そう決心して部屋を出ようとした時、彼女は辺りにたちこめる、深く悲しい気配に気付いたのである。

◇◆◇◆◇

「陛下、ご裁断を」
沈黙を破りジュリアスの声が広間に冷たく響いた。

◇◆◇◆◇

次元回廊が、虚無の空間へと口を開けている。
その奥を見る者すべてを有無を言わさず吸い込むような気配をたたえて。
「アンジェリーク」
ロザリアが抑えなければいけないと思いつつ、押さえ切れない感情を友人の名前にして口にした。
それにはじかれたように最年少の守護聖が言う。
「ねえ、ほんとにアンジェが行かなければいけないの?何か他に方法があるんじゃ ―― 」
ある訳が無い。ないからこそ、彼女はこの危険な賭けに賭けてみるのだから。
ランディが俯きながらマルセルの肩に手を乗せる。
ゼフェルは赤い目をいっそう赤くして、それを悟られぬようそっぽを向いているが握り締めた拳が小さく震えている。
他の守護聖達もそれぞれ沈痛な面持ちでアンジェリークをみつめていた。
その中で唯一ひとり、無表情で沈黙を守っていたクラヴィスがすっと、前に歩み出てつぶやく。

「いくのか」

おまえも。
この虚無の中へと。
やはり、おまえの望むものは。
『死』か?

じっ。と、アンジェリークはこの背の高い人をみつめた。
そして。

すぱーん。

渾身の力を込めたアンジェリークの手が、クラヴィスの頬で鳴った。
平手打ちを食らった当人を含め、全員があっけに取られている中、言う。
「生きて、帰って来いと言って下さい」
強い、口調であった。
「そうしたら私、帰ってきます。絶対。その言葉のためだけに帰って来ます。
―― あなたのいる、この場所に」
義務感でも、正義感でもない。宇宙のためですらない。
ただあなたにもう一度逢って自分の気持ち、確かめるためだけに。
だから、私に言って、生きて、帰って来いと。
揺るぎ無い決意をたたえる森の緑を映し込んだ瞳。
そこにはかつてクラヴィスが危ういと思った悲しみの色はもうない。
突然にも思えるアンジェリークの言葉に、驚きを隠せずにいる仲間達の中で、地と水の守護聖だけがふたりの心中を思い、切なげに目を閉じた。
アンジェリークの右手が、クラヴィスの左手に幽かに触れる。
想いが伝わった。
あたたかい、体温とともに。
おまえに、今初めてふれた気がするな。
クラヴィスはそう口にする代わりに言う。

「必ず、生きて帰ってこい。おまえを待つ者のいる、この場所へ」

金の髪の少女は満面の笑みを浮かべた。
かつて天使のよう、といわれた笑みを。
そして、軽く触れた指先から伝わる温もりを惜しむようにゆっくりと、一歩、二歩。
クラヴィスを見つめたまま後ろ向きに歩む。
ふたりの距離が、ふたりの手の長さを超えて指先が離れた瞬間、くるりと踵を返すと前を見据えて凛と歩き出す。

その後ろ姿がやがて白い光の中へと消えるまで、聖地の仲間達は無言でみつめていた。
彼女は無事に帰ってくると信じたい。
そう願いながら。


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